さて、続きです。
平和記念資料館の出口で
先ほど声を掛けて頂いた「ピースボランティア」の方が待っていてくれました。
声をかかけてもらってからかれこれ30分以上経ってるのに有り難いです💦💦
こちらが詳細ページです
お名前は失念してしまい後で知ったのですが、この方は何と?!ボランティアの第一期生とのことで
その話し方から豊富な知識まで素晴らしかったです。お祖父様とお祖母様が爆心地にお住まいで
お亡くなりになったと仰っていました。
最初に書いてしまいますが、この方がずっと仰っていたのは
「今この記念公園になっているこの中洲にはたくさんの人達が住んでい日々の生活をしていました。
(※上記の写真を見比べると中洲に皆さんが生活していたと見事にわかります。)
「そして、原子爆弾で10秒の間に皆さん命を落とされたんです」
「だからどうぞお祈り下さい。そして今日聞いた事、見たことを静岡に帰られて伝えて下さい」
と何度も仰っていました。
まず、最初にご案内頂いたのは「被爆遺構展示館」です。
焼け野原になった後、この地は瓦礫の片付けと平坦化が行われてそのまま
積層された上に現在の資料館や記念公園が出来ています。
資料館のあったところは銭湯だったそうです。そして被爆遺構にはそっくりそのまま
原爆投下以前の生活の様子が残っていました。炭化してしまったり溶けてしまった
土間などが原爆投下を物語っています。
この被爆遺構展示館が出来た事は初代平和記念資料館館長が
地質学者の長岡省吾さんであった事なども
深く関係しているのではないでしょうか?・・・・
また、この世界の片隅にで、ここ平和記念公園の中島町が舞台になったことから
注目が集まったことも要因とのことです。
上記の資料館の写真は1954年ですから戦後9年です。1949年に可決された
広島平和都市建設法により、資料館をはじめグランドデザインが決められていったようです。
で、今でも平和都市広島の礎となっているのが
公園の設計をした丹下健三さんの「平和の軸線」という考えでです。
原爆ドーム、資料館、噴水、を一直線に結ぶのが「平和の軸線」です。
この軸線上には規制が設けられ、この広島の平和の景観を守っているんですね。
※ドームの横にある黒い建物は商工会議所で原爆投下後焼け残ったものを修復している
そうです。なのでの軸線内に唯一ある高い建物とのことでした。
さて次はコチラ
https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/
URLの通り、国立の施設です。
館内には遺影やお名前がぎっしりと掲示されています。
そして驚くことに、地下の壁面360度には亡くなった14万人と同数のタイルで
爆心地から見た被爆後の市街地を表現しています。
拝見して感動とかではなく「すさまじさ」を感じました。
こちらは、公園内ガイドの英語版です。
一番上の左にあるのが、原爆供養塔です。
ガイドさんいはく、公園内で一番重要な場所との説明を頂きました。
建立の目的など「あぁ、そういう事だったんですね」と改めて想うこと多いです。
詳しくは上記を是非お読み下さい。
そして、その横にあるKrean Victims はその名の通り韓国の方々の被害者の慰霊碑です。
当時、日本の植民地だった韓国から皇族の一人の方が人質のような扱いで広島にいて
亡くなったそうです。しかし、皇族の一人だったので被爆直後の中どうやったかはわかりませんが
遺体をドライアイスで覆って本国まで送還されたそうです。投下直後の事を考えると凄い事です。
また、当時、大きな建物の中でも「地下」が設置されていたビルがあったそうですが
偶然にも投下直後地下にいた方々はほとんど全員助かったそうです。
さて、最後の原爆ドームに行きましょう・・・続く。